ブログタイトル変更
ブログタイトルを「1968年のレヴォリュシオン」から「豚がブーブー鳴くのに近い愚行」に変更した。
世の中は完全に間違っている。
どのくらい間違っているかがわからないほどに間違っている。
間違っていることを間違っていると言うと間違っていると言われるほどに間違っている。
最近、パナマ・ペーパーというのが暴露されて世界的に話題になっている。
パナマは「タックス・ヘイブン」と呼ばれていて、金持ちや大企業はここに金を移して税金を払うのを避けているのだ。
こんなことが許されるのかと思うだろうが、世界はこれを許してきた。
なぜなら世界各国は巨大な金を動かす者どもによって動かされているからだ。
世界は我々に堅実であれと教える。
我々は堅実である美徳を糧に生きている。
まじめに暮らせば報われるとそう教わる。
それは嘘ではないけれども、世界は嘘だらけじゃないか?
そこでこうだ、豚がブーブーというわけだ。
この世界の圧倒的不平等と一般ピープルの奴隷性に気付いた我々が、いかに行動すべきか。
私にはわからない。
だから今はブーブー鳴こう。
さようなら1968年のレヴォリュシオンよ!
安倍首相の対米「霊属」的世界観
日本のことを本気で考えているのは官僚である。
と思い込んでいる官僚が操っているのが日本である。
日本政治もまた官僚が操ってきたわけだが、
その官僚が無能になったことが、日本の無能の王たる内閣を形作っている。
官僚は職人ではない。
官僚はプランナーである。
という明治の時代からの自負が彼らにはあったわけで、それが時に有能な政治家をも生んできた。
むろん左翼者は嫌われ、さらにはソ連崩壊で行き場を失い、果てつつある。
そのプランナーたる官僚が摩耗したのは、資本主義のせいであろう。
資本主義を信じている人間などバカばかりだということを知っていたのは官僚だった。
だが国家が資本主義に飲み込まれたことで自我を失った日本官僚集団の自意識は、米国から見て「いい日本」になりきることと化した。
これが敗戦国の意識でなくてなんだろう。
だがここには奴隷のような服従の恥の意識はない。
むしろ自分の罪に全く無自覚な赤子のようなまっすぐの自己肯定感こそがある。
このいわば透明たる「霊属観」が最も体現されているのが、安倍晋三という「AKIRA」である。
この人は世界中を回っているが、ただ一つの世界にしか逢っていない。
「国際社会」すなわちその青春時代の数年かを過ごした「米国」である。
この人の歴史認識を問う人もいるが、岸信介が外祖父であることが象徴しているように、この人の戦前と戦後は全く無反省に繋がっている。
このようないわば狂人、誇大妄想者を頂点にいただいている国が近代国家と言えるのか。
日本という国家は安倍の個人史ではない。
しかしこの赤子たる安倍を可能としているのは大衆の無意識なのである。
うつむき加減で眠る君
翁長知事よ、アメリカなど相手にするな!
翁長知事よ、東京に行って失望しただろう。
海を深く深く掘って軍港を作るその大計画に待ったをかけようという人を無視する
相手の言うことなどはなから聞く気ない人々に失望したろう。
次はアメリカだ。アメリカのためにやってんだ。アメリカは話を聞くだろう。
おいおい聞いてないよ、誰も会ってくれないよ、ハワイとはぜんぜん違うじゃないか。
それもそのはず、アメリカの政治家は利害でしか動かないんだよ、それに日本外務省が根回ししてるよ。
翁長知事よ、アメリカなど相手にするな!!!!
ストラスブールという町を知事ならご存知かもしれません。
フランスの北東の町です。
フランスの町だけどフランスとは山脈で隔てられていて、地理的にはドイツ側、言語的にもドイツの方言を話すドイツ文化圏なんです。
しかしここに住む人々はドイツに二等国民扱いされ、第一次大戦後にドイツが敗れると独立を宣言し、しかしフランスに編入され、さらにナチスに取り戻され、解放で再びフランスの地となるという波乱の現代史をたどってきました。
ストラスブール。
この町は今、欧州統合の象徴となり、欧州議会が置かれ、欧州人権裁判所が置かれている。
ドイツとフランスの争いに翻弄されたこの地は今、平和と人権の象徴の地となっている。
沖縄を平和の地としたいという知事の声を、トーキョーは空気のごとく無視した。
美しい海を見てくださいと訴える知事の姿を、アメリカはタクワンでも見るような目で見た。
知事よ、アメリカなど相手にするな!
フランスなどの反対を受けながらイラクを攻撃してめちゃくちゃにし、まったく人々に受け入れられることなく、テロ国家を生んだのがアメリカだ。
利益のアメリカではなく、理念のヨーロッパにおいでなさい。
ストラスブールの市長(2020年までロラン・リス、社会党)に会い、ドイツの平和活動家に会って、理念に訴えれば、彼らは耳を傾けるであろう。
佐藤優の「イスラム国」解釈について
シリアやイラクにかけて広がっている「イスラム国」について、佐藤優は、これを断固として否定し、ひとかけらも同情することなく、世界の連携によってつぶさなければならないと訴えている。佐藤優がそう訴えるのは「イスラム国」が世界イスラム革命を広げようする組織であり、交渉の接点があり得ない団体だからだという。これに関して中田考氏のような「テレビに出ると絵になるゲテモノのようなのを面白がって出しちゃだめだ」と主張する。そしてそれはまずもって、日本人からテロリストを出さないためだという。(以上、私の佐藤優理解)
まず断っておくと、私はテロリストのような破滅的な行動は評価しない。思想のために自分を犠牲にすることは、自分のために思想を犠牲にすることだ。私はどちらかというと、佐藤優のように立場を選べる人間と比較すれば、立場を選ばなかったり、選べなかったりする人間にすぎない。
単刀直入に言えば、私は、佐藤優の「イスラム国」解釈に軽い疑念の兆しのようなものを持っている。佐藤優はテロリストに同情するなというが、デモ弾圧で相当の人間を殺しているエジプトのシシ大統領や、ガザ攻撃でやはり民間人を殺してしまったネタニヤフ首相の横で、「テロリストには屈しない」と胸を張ることが果たして正義か。イラクを独裁国家だからとうそぶいてぶっ壊し、その傷跡から膿み出てきたイスラム国なる化け物を新型兵器で追跡している米国と「対テロ戦争」を語ることが正義だと、世界に対して大きな声で言えるのか。
米国は確かに強い。日本の「国益」を考えるならば、米国ともほどほどに協力し、中国ともほどほどに距離を取り、中東には触らぬ程度に介入することが、最善の策と言えるのかもしれぬ。しかし。しかし。しかし。しかし。そうした汚れにまみれ、「対テロ戦争」という嘘をなぜあなたが宣伝しなければならないのか。真の光によっては、人は動かされないと考えているからか。佐藤優さんに引力を感じている一人である私はまあそんなことを思って歯がゆく思う。そのすべてが妄想である可能性もあるわけだが。
私としては「イスラム国」は狂気の団体であると同時に、ある種の夢をも与えているのだと考える。そしてその夢は、私たちの住んでいる世界の歪みが生み出した夢なのだと考える。神の下の絶対的な平等。分かち合い。慈愛。私たちの世界から資本主義が削ぎ落としつつある何か、何かしら絶対的な何かを、彼らは受け取ってしまっているのである。こうした衝動を「良い方向」に向けることこそが、私たちの社会自体を癒していくのではないか。そうでなければ、テロはこれからも生まれ続け、強国の代理戦争はこれからも深刻化していくと考える。