光には名前がない
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テロに襲われたパリから
あるコンバースの死
昨日見た靴とよく似ている気がした。
昨日見た靴もコンバースの白黒で、方っぽだった。
汚れて湿っていた。
昨日は落ちていたコンバースのその横を、よろよろと女がよろめいていた。
裸足だったように思えた。
思わず上を向いた。
落ちてきたのかと思ったから。
しかしそれらしきものもなく、思いすごしかと思って、目を下ろすと、よろめく女の後ろ姿が影に隠れた。
さて我に残されしものは記憶のコンバースと眼前のコンバースのみ。
その両者が同一のコンバースではないと直観しながらも、片方のコンバースが落ちている偶然がそう続くものか、と思う。
さて昨日あれはどこで見たのかと過去をたどらんとせども、石造りの建物の間に記憶は迷い込み、コンバースとよろめく女の記憶は、ちょうど町にまぎれこんだよろめく女の後ろ姿のごとく消える。
平成大一揆
国慶節に考えたこと 日本に分のある争いを不利に進める安倍首相
10月1日、中国の国慶節である。
国慶節とは建国記念日のことで、今年は中国の建国65周年に当たる。
毛沢東が天安門広場で建国を告げた日からちょうど65年ということだ。
ちなみにその前は国共内戦である。
日本の敗戦はその4年前となる。
国共内戦、毛沢東、反右派闘争、大躍進政策、文化大革命・・そうした過去は中国の若者にとってはすでに遠い昔の物語に過ぎない。
だが残念なことに、それよりも時間的には前にあるはずの日本の侵略戦争は、彼らにとってむしろリアルで感情を伴う問題として共有されている。
日本は現在、客観的に言って、侵略戦争の侵略性を否定しようとしている。
極東軍事裁判や米国統治の不公正を戦後日本が飲み込んだつけが、ねじ曲がった形で表れているのだ。
侵略戦争の侵略性を正確に否定するなら、それは欧米資本主義に対する反発につながるべきである。
なぜなら戦争の目的は建前として大東亜共栄圏の実現だったわけで、中国は五族協和の仲間である。
それなのにそれが反米とならず、中国や韓国に対する反発という形を取るのは矛盾である。
「脱亜入欧」以降のアジア蔑視がここにはあるし、さらに中国については昔ながらの「反共」の色付けもされている。
さて日本と中国との関係悪化についてだが、戦後だけを見れば、日本に分があることは間違いないと考えている。
現代の国際社会で共有されている民主主義の枠組にアジアでいち早く入ったのは日本であり、ここ70年近く、日本のスネに大きな傷はない。
一方の中国は全身傷だらけだ。
現在だけを見ても、共産党の指導者が汚職まみれであることは人民も知っている。
開放が進んでいると言っても言論の自由は限定的で、民主活動家の劉暁波はその言論を理由に今も監獄に入れられている。
チベット・ウイグルを初めとした民族問題の深刻さは、アイヌ・沖縄の比ではない。
上海市を流れる川に死んだ豚が何百頭も浮いてしまう状況だから、遅れた工場の多い地方の環境問題の深刻さは想像を絶する。
だが「日本を取り戻す」とのたまう安倍首相は、現代日本を1945年以前に結びつけようとする。
そして中国や韓国の猛反発を食っている。
国民の一部は、無意識のアジア蔑視によってその中韓の反発を聞きもしない。
結果として、戦後70年の日本のまっさらな履歴書に墨を塗りたくっているのである。
戦争の侵略性を認めることが中国に利することだと思っている方は多いようだが、それは決定的に逆である。
日本が侵略戦争を認め、戦後日本の歩みを認めれば、中国共産党には何の言い分もなくなる。
安倍首相という人物は決して悪い人ではないかもしれないが、一種の狂人である。
爺さんは「満州国は私が作った」と言った岸信介である。
帝国主義の時代だから、満州国という傀儡の国を作って領土拡大をはかってもそれは当時の当たり前だと言えるかもしれない。
だがそれは国土を蹂躙された人々にとっては明らかに侵略である。
その痛みをわからないのならば、タイムマシンで支配・被支配の時代にでも行っていただきたい。
中国建国から65年が経った。
中国共産党は抗日戦争勝利後、共産国家の建設に失敗し、存在意義を失っている。
安倍首相のタイムスリップのロジックは、中国共産党の動力源とすらなっている。
日本と中国の仲が良かった80年代、中国共産党が崩壊寸前にまで行ったことを思い出してほしい。
日本はまず自らを批判する勇気を持とう。
そして中国を批判し、助けよう。
日本・中国を含んだ世界平和のビジョンを胸の中に持とう。
中韓との対話に失敗し続ける安倍首相の時代錯誤の戦略に未来はない。
個人とは全体主義の欠陥である
非常に乱暴な命題を許してくれ
もしこの一人が死ねば
ほかの千人が死ななくてすむようになるなら
その一人を殺していいものか
私たちの世界ではそれは「いい」ことになっている
それは仕方がないよ、と。
もしこの十人が死ねば/ほかの百人が死ななくてすむなら/この十人を殺していいか
もしこの三人が死ねば/ほかの五人が死ななくてすむなら/この三人を殺していいか
それは「だめ」だとすぐわかる。
その三人の存在は消せないから。
最初の問題に立ち戻って「この一人」を思う時、その存在も消せないことがわかる。
つまりは命題そのものがまったく成立しない。