豚がブーブー鳴くのに近い愚行

5月革命について調べるはずが漂流しています。

ある夜のひとり言

他人と仲良くするのは怖い。なぜならそれは、敵味方の世界に落ち込むことだからである。だがそれ以上に真実があるだろうか。

「話を聞いてほしい貴方の心の穴に入れば、私は貴方を愛してしまう」。愛するのが怖いのは、自分が弱いからだ。強いとは、守れるということだ。

私は無私である。しかし私は幸福ではない。しかしその「私」が曲者である。私はいつの間にか無私の裏側にいて、頑固にも不幸であった。

「私」のために生きることを強いない社会に行きたい。そう思って探したユートピアは、アジアにあった。それは、圧倒的資本主義によって汚されつつある何かだ。


主観性から客観性へ

主観的な情緒は何も変えない。
物事を変えるのは客観的な認識である。
だが客観的な認識には客観性という暴力が付されている。
主観から逃れつつも客観には至らない。
そんなあり方が必要とされている。

例えばヘイトスピーチが問題になっている。
これは非常に情緒的でありながら、客観性を身にまとったものの典型である。
そしてこの存在そのものが、そういった社会の存在を浮き彫りにしているのである。

これを禁止するというが、それは事実上できないだろう。
実際にはこれらのヘイト団体は禁止されないギリギリの言論を続けて行くことになる。
これを禁止しようという試み自体がなし崩し的に終わる。

実際には、ヘイトがあり得ないような多文化主義教育が必要となるが、それを腰を据えて行うような余裕も思想も日本にはない。
さらに首相周辺の言動からはまさに狭窄した客観主義を標榜する主観主義が漏れ出てくるのだから、この国の前近代性は露わになる。

我々は情緒の主観を越えなければならない。そして客観という嘘にも騙されてはならない。残るのは変化し続ける客観である。変化をもたらすのは常に他者である。

魯迅に俺は嫉妬する ある世界主義者の絶望的諦観

政治のことを考えても仕方がないという気がしてきた。
民主主義が必要なんていうのは嘘だと思った。
だって誰も聞かないだろう?
世界のことなんてどうだっていいんだ。

それでも叫び続けろと君は言うだろう。

魯迅は言った。
眠れる自由を破っていいのか。
起きたらそこは扉のない監獄だ。
だが監獄を開け放つ希望こそが現実なのではないかと、彼は革命の思想を語った。

だが魯迅の場合は良かった。
民族が危機に瀕していたからだ。
魯迅の夢は世界にあった。
その世界を愛する民族が現れたのである。
つまり普遍には民族を通じて至るということである。

話がそれたが、魯迅の場合は、半植民地化された世界があった。
そしてその危機をなんとかしようと叫ぶ国民がいた。
そこには正義があったのである。

だが今は。
日本は。
中国は。
完全にその段階を越え、正義のない力争いになっている。

中国共産党に塩を送る安倍首相

現在の日本の外交や軍事は、安倍首相の主観によって動かされている部分が大きい。安倍首相は日本の根幹を江戸幕府でも明治維新でもなく「英霊」に置く。なぜなら、日本は敗戦によって「普通の国」であることを失ってしまったと考えているからだ。安倍首相は「現在」を1945年につなごうとしている。

 

戦後70年をすっとばす試みは、中国に伝染している。例えば「抗日戦争の元兵士」を見直す動きだ。45年以前に民族独立のために戦った彼らのほとんどは90歳代で、病気や貧困にあえいでいる。こうした人々を助けるための寄付が全国から続々と集まっている。

 

中国にとってもこれは「すっ飛ばし」である。45年から49年にかけては苛烈な国共内戦があった。その後は、大躍進政策や文化大革命という無責任な政策に翻弄された。改革開放によって経済が急速に発展する一方、貧富の差がどうしようもないほど拡大している。

 

これらの歴史をすっ飛ばすことは中国共産党に都合がいい。なぜなら共産党の正当性は抗日戦争にしかないからだ。当時の日本に対する抵抗を「共産党の陰謀だ」などと言いたがる人もいるが、中国人の中で国を救おうと戦いに身を投じた人は多かったはずだ。彼らの国土が実際に外国の軍隊によって侵食されていたことを認識しよう。

 

日本の戦前にまで遡り、こうした抗日の兵士たちに現代の中国人が感情移入を始めれば、中国共産党はにわかに輝きを取り戻す。安倍首相は中国共産党にわんさかと塩を送っているのである。日本が戦後の歩みを自己の立脚点とすれば、中国は敵の姿を見失う。

 

初めに戻ろう。日本は現在、この「すっ飛ばし」へと突き進んでいるが、これはもともと国民の総意ではない。安倍首相の主観なのである。このような歴史観(憲法解釈変更など)は国民に選ばれたものではない。主観で国を動かす人間を指導者としてしまったことは、日本の現代史の「痛い」事実として残るだろう。

憲法解釈変更を看過しつつある洗脳された私たち

集団的自衛権を容認する憲法解釈の変更については、ほとんどの新聞やラジオが慎重もしくは反対の立場をとってる。だが安倍首相による閣議決定と言う唐突な事件は日本社会にほぼ摩擦を起こすことなく通り過ぎた。

もちろんデモや集会があちこちの街頭で行われた事は事実だ。しかしその程度のことならばこれまでの教科書修正問題やイラク戦争賛成問題などで起こっていたし、世界は、車の通らない場所に人が集まった位では変わりはしない。

されば私が失望するのは、真っ当な反論を一面に掲げながら何事もなかったように経営を続けるメディアである。新聞社はなぜデモの中心に立ち、これを伝え、広げ、安倍政権の歴史的な暴行に対し抵抗しようとしないのだろうか。新聞社はなぜ、すべての活動を一時停止しこの問題について国民的な議論を巻き起こすべく働こうとしないのか。

この国は政治が許されていないからだ。もしそれが起こればその新聞社は総スカンを食い、あらゆる広告主は広告を取り下げ、発行を続けるカネがなくなる。だがそれでも我々はそれをしなければならない。我々は無償で働き、取材し、印刷し、それを配り、討論し、明日の世界を作り出す本当の仕事をしなければならない。

ア・ベ・ノ・ミ・ク・ス。

あなたの空虚な灰色の背広の動かす機械に人間の希望を託すほど、私たちは堕落している。ブル新がブル新らしさを遺憾なく発揮する横で、やはり敵は資本主義にあったということを思い出す。資本主義に洗脳された私たち。狂気の時代に。

人民VS都民

人民の生活

 

畑に牛

草に虫

山に水

空に雲

 

日曜の市まわり

もうひとまわりぐるりまわれり

 

 

都民の生活

 

ゴカケルゴハジュウ

ジュウカケルニハサン

 

お疲れ様でーす

あっ、お疲れ様でーす。

えー、もう、参っちゃいますー。

 

クソッ。シネッ。

 

あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、そこ、いく、あ、もうすこし、あ、みぎ、なめて、あ、そこ、そこ、あ、もっと、あ、あ・・

コペルニクスの信仰

信仰は揺らぐ。
揺らげば揺らぐほど高い信仰が必要となる。

地球が回っているという信念が揺らぐ人はもはや稀だろうが、地球が回っていることを四六時中考えている人も少ないだろう。
しかしコペルニクスの時代には天動説的世界が優勢だったわけで、地動説を唱えるものはまさに四六時中それを意識させられたことだろう。

信仰が揺らぐことは信仰の真偽には関係ないし、信仰が堅いことも同様だ。