豚がブーブー鳴くのに近い愚行

5月革命について調べるはずが漂流しています。

レヴォリュシオンとは崩壊である

日本では、中学校などで

「英語では“We Japanese” という表現は使ってはいけませんよ、No Good!」

などと習う。その心はと言えば、

「ほかの国の人に向かって、『私達はどう』というのは、『あなたは違うけど』の裏返しになってしまうから」ということである。

 

これだけではちょっとわかりにくい。

 

例えば、私たちが夜、知らない町で歩いているとしよう。

薄暗いトンネルを歩いていると向こうから早足で歩いてくる人影がある。

コッツコツコツと足音が近付いて、だが相手の顔は逆光で見えず、

不安が高まって相手がさらに近付いた時にその相手が

サッと右手を頭の上に掲げて振り下ろしたら、

我々は思わずギョッとして後ろに

飛び退くのではないか。

 

この男にさらに、「何を驚いているんだ。ガマジキ町の人間である俺たちは人と会ったらこうやるんだ」などと言われたら、ガマジキ町の人間でない私は、ガマジキ町の人間に何をされるかわからない。と思ってしまうだろう。

 

つまり、他国の人たちに対して、「日本の伝統ではこうやる、日本人の多くはこう思っていると言われている」と言わずに、「日本人はこうやる、日本人はこう思ってる」などと言われると、親しみがわくどころか、「え、この人私に日本人押し付けてるの」と思われてしまう可能性さえあるのだ。

 

なぜそれが問題になるかと言えば、それはナショナリズムである。

人間の帰属である。

他国との関係性に身をかかわらせる時、我々はナショナルな存在になる。

 

しかし革命の時。

レヴォリュシオンの鐘が鳴る時、国境は消え去る。

5月革命でインターナショナルを歌った彼らには、1792年のフランス革命、暴力に終わった失敗した革命、しかしその後の世界に、民主主義に大きな影響を与えた革命と同じ理念が存在していた。

 

人間、Humanismus

 

レヴォリュシオンとは、崩壊である。

「我々」の崩壊において、それは民主主義を、話し合いの解決を求める。

だが崩壊を認めない者たちが、さらに他者として現れる。

「彼ら」(貴族/資本家)が形成されることによって、

「我ら」(市民/労働者・学生)が生まれる。

 

1968年のフランス革命。

新しき「我ら」の指導者の一人は、

ダニエル・コーン=ベンディット(Daniel Cohn-Bendit)

23歳のドイツ人留学生だった。